死んだらどうなるのか?

最福寺の弁財天様と護摩行

数年前に、実家の墓参りにいき、お墓のある鹿児島の平川の最福寺に車で入ったとき急に泣き崩れてしまったことがある。

車の中で、インドの旅先のカフェのお兄ちゃんから教えてもらったインド音楽(Sound of IshaのDedo Prabhuという曲)を聴いていたのだが、音楽に感極まり、その瞬間、インドに自分を導いてくれたのは亡くなった佐々木家の祖母だということを実感したからだった。

もちろん、それが本当かどうかは誰にもわからない。

ただ、これまでの自分の人生のストーリーを振り返ると、そう考えると全てのつじつまがピッタリを合うのだ。

インドに行く10年前ぐらい前、20代のときに東京で自分を見失いひどく落ち込んで実家の鹿児島に戻ったことがある。

そのときに、自分の心の支えになったのは、家族と、お墓のある最福寺池口恵観先生の存在だった。

池口恵観先生は、真言密教の僧侶で厳しい護摩行(火を焚く祈祷であり修行)を実践されている方として知られている。様々な人生で行き詰まった人や不治の病の人が訪れるお寺として知られている。

恵観先生の護摩行

亡くなった佐々木家の祖母は、信心深い人だった。仏壇に向かいお経をあげる姿を今でも覚えている。

その祖母が生前に購入したのが最福寺内の墓地だった。

帰郷してとても落ち込んでいたぼくは、なぜか最福寺の護摩行によく通うようになり、しばらくしてから自分を取り戻すことができた。

般若心経などのお経も自分にすっと馴染むように暗唱することができるようになった。

そんなことがあってから、最福寺の宗派である真言宗にはご縁を感じていたのだが、その後、大学院に進学したときの休みに、初めて真言宗の聖地である高野山を訪れる機会を得た。

高野山の壇上伽藍

さらに、また高野山とのご縁が深まったのが、結婚前の妻がそれまで住んでいた京都を離れて高野山に住んでいた時期があり、彼女に会いに行くのに何度か高野山に通った時期があった。

高野山の書店で初めてヨガの本を購入したのを今でも覚えている。綿本彰先生の「ヨガで始める瞑想入門」という本だった。このときは、綿本先生がヨガ界の大御所であることなどまるで知らなかった。2019年にはインドのヨガフェスティバルで綿本先生のクラスを受ける機会があった

リシケシでのヨガフェスティバル。ガンジス川のほとりにて。

こうして自分の仏縁やヨガとの縁をたどっていくと、祖母の購入した最福寺のお墓が起点となり、様々な経験を経て準備が整っていたからこそ自分が2018年にインドに行くことができ、ヨガのトレーニングで劇的に元気になれたのではないか、と自分の中では解釈している。

初めてインドで1ヶ月ヨガのトレーニングを受けたとき。

こういったご縁のつながりの先に、インドでの経験をさせてもらえたのだということを、冒頭の墓参りのとき瞬間的に何か悟り、有り難くて感謝のあまり涙が止まらなくなった。

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そんなこともあり、死や死後の世界についてはよく考えるが、死に対する恐怖は常に身近にあると感じている。

特に家族など愛する人との別れがとても怖い。

最近購入した田坂広志先生のこの本「死は存在しない 最先端量子科学が示す新たな仮説」の冒頭にこんな文章があり、上記の自分のストーリーを思い出した。

「あの肉親は、他界した後も自分を導いてくれてるような気がする。それは、単なる思い過ごしなのだろうか。それとも、本当に導いてくれているのだろうか?」

あなたはどう思いますか?

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